ハンターエッセー

第4回 ゴールデン・ルートを支えた木造汽船「六甲丸」

ハンターさんが大阪鉄工所を創業した明治14年頃には海上輸送が人流・物流の大動脈になってきます。17年の大阪商船の運行日程表では、大阪港を出帆して神戸、馬関(下関)、博多、長崎、百貫石港(熊本)を結ぶ路線が第一本線として、さらに大阪発、百貫石港経由で筑後川沿いの大川が終点となる第二本線が運航されています(1)

大阪・熊本間の所要時間は約60時間だったそうです。肥後細川家の参勤交代の所要日数は33日から35日です。陸路で熊本から大分の鶴崎まで行き、鶴崎からは船で播州室の港まで渡り、そこから陸路で大阪を経由して江戸に向かうというものでした。そのうち大阪までは20日程の行程でした(2)。現在の新幹線で3時間という所要時間とは比べようはありませんが、船便は関西と九州との時間距離を驚異的に短縮させたわけです。

大阪肥後航路の大阪出帆記録数の推移

この航路は「ゴールデン・ルート」でした。寄港地に博多、長崎のような大商業地があり、熊本は西南戦争後官庁町、軍人町、商業都市として大きく成長していたため、人物の往来や諸産物の取引も多かったからです。立山一郎氏の調査によると右の図のように明治14年には96便が大阪港を出帆し百貫石港以遠に向かっており、21年には309便と3倍以上に増加していることからも路線の盛況ぶりがうかがえます(3)

ハンターさんはこのような海運拡大の趨勢を敏感に感じ取っていたのだと思います。『百年史』(4)によると、創業式の前年の明治13年には既に木造汽船「六甲丸」を完工し引渡しています。この汽船はその年の12月には大阪港、神戸、馬関、博多、長崎、肥後、鹿児島という路線で運航され(5)、後には大阪商船が第二本線で運航しています(6)。また16年に建造された「鎮西丸」は、翌年から同社の第一本線で運航されています。当社初の鉄鋼船「球磨川丸」なども大動脈を支えることになります。

大阪鉄工所は時代の波をとらえ、明治末期には三菱・川崎両造船所と並ぶ日本三大造船所となり、第1次世界大戦後には飛躍的な発展を遂げます。強力な財閥資本や有力な金融機関にバックアップされることのなかった大阪鉄工所でした(7)が、旺盛な「野人的な開拓者精神」(8)により他人に頼らず自主独立でやりぬいた結果なのでしょう。この精神の源流は「CURSUM PERFICIO (走れ、全力をあげて) 」というハンター家の家訓にあることはいうまでもありません。

参考文献

  1. 1立山一郎『明治前期の大阪肥後航路と汽船便』2018年、株式会社日本郵趣出版、33p 掲載の明治17年9月28日付大阪朝日新聞「大阪商船会社社船出港日改正表」
    以下本稿で汽船の運航に関することについては本書によらせていただいています。感謝します。
  2. 2吉丸良治『花畑屋敷四百年と参勤交代』2018年、熊日出版
  3. 3立山一郎『明治前期の大阪肥後航路と汽船便』2018年、株式会社日本郵趣出版 9p及び130p
    「付属資料」本文のグラフ「明治初年における大阪肥後航路の大阪出帆記録数の推移」は「付属資料」から筆者が作成。
     (『明治前期の大阪肥後航路と汽船便』立山一郎2018年株式会社日本郵趣出版付属資料から作成/著者が大阪日報などの新聞情報をもとにして作成した資料であり、当時の新聞の事情から欠号も多く全ては網羅できていないと述べられている。)
  4. 4『日立造船百年史』昭和60年、日立造船株式会社、9p
  5. 5立山一郎『明治前期の大阪肥後航路と汽船便』2018年 134p
  6. 6立山一郎『明治前期の大阪肥後航路と汽船便』2018年 33p
  7. 7杉山和雄『造船企業金融史の一考察 –大正前期の大阪鉄工所を中心に–』「金融経済第100号」1966年、株式会社有斐閣、189p
  8. 8『経営の伝承(創業100周年記念)』昭和60年、日立造船株式会社、2p

各種お問い合わせはこちら

お問い合わせ