ハンターエッセー

第1回 舞鶴丸

ハンターさんは明治14年(1881年)に大阪安治川沿岸の地に大阪鉄工所を開所しました。もしハンターさんが船を作るという決心をしなかったら、今日の日立造船もありませんし、酒盃を交わす同僚もいなかったことになります。ハンターさんが造船業を志す動機は、『七十五年史』では、キルビー商会での「舞鶴丸」の建造の経験にあったと記しています(1)

製造主:英国人イ・シ・キルビー商会ヱドワルド・ハズレット・ハントル
船名:舞鶴

また、『百年史』(2)には次のように記載されています。明治元年に神戸に商会を興こしたキルビーは「四面環海の日本が故国イギリスと似ていることから・・小野浜造船所を設立・・したが、うまくいかず一応閉鎖することにした。しかし既に肥後藩細川の木造汽船舞鶴丸を受注していた。・・舞鶴丸の建造をやり遂げようと決心したキルビーの頭には、ハンターの存在があった。ハンターは、工事監督として舞鶴丸を完成させ、その期待にこたえた」。この苦心の結果は神戸大学に明治4年の文書(写真)として残っています(3)

明治7年10月の明治政府の調査(4)によると、舞鶴丸は白川県(熊本県の旧名)の所管する蒸気船で、「日本神戸」で「明治4年」に製造されており、「全身長 十六間半」「甲板幅 二間半」と記されています。『新熊本市史』(5)には肥後藩所有の洋船として「舞鶴丸40馬力・171トン半・積石160石・乗組人員13人」と記載されており、小型の輸送船だったことが分かります。

また、舞鶴丸は明治7年2月佐賀の乱において熊本鎮台兵を乗せて肥後百貫石港から筑後河口の早津江に輸送(6)しています。「午後8時早津江に着き・・兵士を上陸させた後、干潮のため出港できないでいるうちに、佐賀兵に拿捕」(7)されます。しかし3月には政府軍に奪還(8)されています。このあと士族の反乱は熊本の「神風連の乱」、明治10年の「西南戦争」と展開して行きます。百年史には「(西南)戦争で巨万の富を築いた豪商は多い。ハンターも、軍需物資を扱って多大な利益を挙げ、商会の基礎を固めることができた1人であった」(9)と記されていますが、自分が建造した蒸気船が、明治日本の時代の激流と、自分の運命とをつないでいたことをハンターさん自身は知っていたのでしょうか。

ハンターさんの長男竜太郎は、引退後大正から昭和にかけ自分のヨットで瀬戸内海や九州沿岸を周遊しています。そのヨットの名前は「舞鶴丸」(10)。父親の若いときの苦労話をきっと聞いていたのでしょう。

参考文献

  1. 1『日立造船株式会社七十五年史』、昭和31年、日立造船株式会社 3p
  2. 2『日立造船百年史』、昭和60年、日立造船株式会社 5p
  3. 3「D2-1404 蒸気船製造出来候ニ付き免状御下渡可被下願候」『神戸開港文書』、1871、神戸大学附属図書館(2020年3月26日閲覧)
  4. 4『全国艦船及び乗組員砲銃弾調査』、明治7年、太政官
  5. 5新熊本市史編纂委員会『新熊本市史通史編第5巻近代Ⅰ』、平成13年、熊本市 414p
  6. 6新熊本市史編纂委員会『新熊本市史通史編第5巻近代Ⅰ』、平成13年、熊本市 419p
  7. 7川副町誌編纂委員会『川副町誌』、昭和54年、川副町誌編纂事務局 251 p
  8. 8大宅由耿『郷土隠史肥前の軍事と風教を語る』、昭和11年 94p
  9. 9『日立造船百年史』、昭和60年、日立造船株式会社 6p
  10. 10『日立造船百年史』、昭和60年、日立造船株式会社 756p

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