ハンター鼎談

創業者であるE.H.ハンターが晩年を過ごした邸宅
(現在は結婚式場「神戸北野ハンター迎賓館」)を会場に、
会長の谷所、職員の楠田、山本がハンターについて語り合います。

これまでもハンターさんのチャレンジ精神について谷所会長は触れてこられましたが、
今なぜ改めてハンターさんを語ろうとされているのでしょうか?

谷所

当社グループは、創業者E.H.ハンターさんによって1881年4月大阪鉄工所として誕生し、造船事業を2002年まで続けました。造船と並行して、溶接技術を生かした橋梁や圧力容器などの製造にも進出し、今日まで売上に寄与しています。

ハンターさんは大阪鉄工所の創業前に、ハンター商会(後の範多商会)や精肉業を興し、創業後も長男の範多竜太郎さんと共に精米、煉瓦、煙草、損害保険など多くの事業を運営して、多くの友人に事業についての助言を与えました。

現在の当社グループの売上は、1960年から70年にかけて欧米から取り入れた技術に基づくものが大半です。翻って日本が置かれている状況を見ると、今や中国にGDPも技術力も抜かれてしまいました。その中で、当社グループがこれから生き残っていくには、新しい技術・製品を生み出していくしか道はないと思います。今ある商売でぬくぬくと食べていけると思っていたら大間違い。リスクを想定しながら新しい事業に挑戦しなくては未来がない、というのが現状です。

当社グループの方針として「全員経営」とか、「現場主義」とか言われてきました。

日頃の行動に、これらと「挑戦の精神」を加えて、汗をかきながら仕事をしたら働くことが面白くなると思います。昔の働き方に戻そうというわけではなく、新しいことに挑戦していく心構えを持ってほしいのです。これまでもハンターさんについて語ってきましたが、それは私たちの原点であるハンターさんを見直し、良いところや教訓を今後進んでいくための原動力にしてほしいとの思いからです。

谷所 敬 さん

ハンターさんは失敗も経験しますが、
最終的に造船事業を軌道に乗せて
成功しています。
一方、同じ時代を生きたキルビーさん※1や歴史の教科書にも登場するグラバーさん※2は事業という側面から見ると
上手くいきませんでした。
ハンターさんが失敗を乗り越え、
成功できたのはなぜだと思われますか?

楠田

まず3人を比較してみます。歴史的に言うと、グラバーさんが最も早く来日し、しかも歴史の中では彼が最も著名ですね。グラバーさんとキルビーさんはスコットランド出身でほぼ同年代、ハンターさんは北アイルランド出身で前述の2人より5歳ほど若い。バックボーンを見てみると、グラバーさんは元々スコットランド出身者が創業した、大企業ジャーディン・マセソン商会(東インド会社)の出張員でロンドン金融市場という資本が背後にありました。彼は長崎で事業を始めるわけですが、薩摩藩や九州の諸大名と上手く取引ができたのはそのような大企業の後ろ盾があったからだと思います。 キルビーさんはスコットランド人によって香港に設立され、後にジャーディン・マセソン商会も資本参加する香港上海銀行から資金を得ていたようです。

一方、ハンターさんには大きな後ろ盾はなく、最初の上陸地、横浜で出会ったオランダ商人に拾われ下働きから身を起こした。そういった違いがありました。

また、「時代」にも違いがあったと思うのです。3人とも今でいうところの中小ベンチャー企業家で、横浜の事例で言えば1865年と1870年を比較した外国商会の年平均開業率は18%と高いものの廃業率も13%と高く、現在の日本では各々4%位ですのでそれだけリスクのある時代でした。キルビーさんやグラバーさんの活動期はハンターさんより僅かに前ですが江戸末期の大変な変動期です。ハンターさんは明治政府樹立後。政治変動というカントリーリスクが低くなった時に事業展開して、パートナーや幸運もあったのでしょうが、結果的に成功できたのではないでしょうか。キルビーさんとグラバーさんは大きな船の仕事を受注したものの、幕末・維新の混乱期で資金繰りが上手くいかず事業が破綻してしまいます。

ハンターさんはキルビー商会の職員として造船業務に携わり、無事納品したという自信を得た経験を付けて、自らのビジネスを成功裡に成し遂げたのです。

楠田 昭二 さん

山本

ハンターさんが成功した最大の理由は、頼る者もいない日本に一人で渡って来て、独力で起業していくという強い挑戦者としてのスピリットを持ち、それを大いに発揮したからだと思います。そして、そのほかに3つの成功のレシピがあったと私は考えています。

1つ目は、パートナーに恵まれたこと。
最大のパートナーは、奥様の平野愛子さん。日本人と結婚して、子どもが生まれ家庭ができた。愛子さんは日本の窓口となり、子の竜太郎さんは成長して大阪鉄工所の所主となり、またさまざまな分野でのビジネスパートナーになっていくわけです。もう一人の重要なパートナーは秋月清十郎さんです。秋月さんは紀州藩の武士でしたが、来るべき将来を見据えキルビー商会に身を寄せていた人物です。かなり意志の強い人物で、ハンターさんより年上でしたが、未来を思う志でつながったのか意気投合してビジネスパートナーになります。ハンターさんが活動できない居留地外の活動を秋月さんが別動隊として担っていたようです。府会議員も務めていて、経済・政治への影響力も強かった。「働くに追いつく貧乏なし」と千辛万苦をものともせず努力を重ねたそうです。このような信頼できるパートナーがいたことは大きかったのではないでしょうか。

2つ目のレシピは、ハンターさんが日本人をとても信頼していたことだと思います。
日本人を尊敬して日本の文化に敬意を示していた。それを感じていたからこそ、ハンターさんのお葬式には「内外紳士紳商及び婦人有志」など多くの日本人が参列したと当時の新聞で報道されています。国外で仕事をする時、その国の文化に敬意を示す姿勢はぜひ受け継いでいってもらいたいですね。

3つ目は、やはり時流に乗れたことだと思います。
西南戦争で富をなしたと社史にありますが、その上に胡坐をかかず、日本の将来を見通し、築いた富を基礎として新しい技術を導入し、来る需要に応える準備をして、チャンスを取りこぼさずものにしていました。

ハンターさんの成功は、この3つのレシピと、新しいものに飛び込んでいく勇気、そしてスピード感、つまり挑戦者としてのスピリットが上手く化学反応を起こした結果ではないかと思います。

山本 理 さん

谷所

山本さんのお話にあった時流についてですが、ハンターさんは造船が本業だったにも関わらず「大阪鉄工所」と名付けたのです。大阪造船所とせず鉄工所です。

鉄が英国にもたらした成長が、いずれ日本でも起こることを確信していたのでしょう。

西南戦争でお金を貯めて、大阪鉄工所の事業を起こしたのだけれど、事業が傾いて手放します。ですが、日清戦争の特需でまた取り戻すのです。

ハンターさんも成功ばかりではなかった。どんな事業にも、仕事にも生き残りをかけるようなしんどい時がやってきます。その時をどうやって我慢して乗り切るか、次の成長につなげていけるかが存続を分けるのだと思います。

ビジネスパートナー
秋月 清十郎さん
ハンターさんの奥様
平野 愛子さん

楠田

ある地域金融機関の取締役会長がおっしゃっていたのですが、社歴が100年超といった「老舗企業」という言葉を金融の方が聞くと、その融資先企業は「不良債権」と捉えるそうです。長期にわたって全く同じ事業を継続している可能性が高いからです。しかし、社名は変わらずとも違う事業に果敢に挑戦する会社には融資しないといけないと思う、と述べていらっしゃいました。このような金融機関の判断に私たちも真面目に向き合わなくてはいけない。

次の時代に新しい「何の事業」で生き延びていくか真剣に経営判断をしていく必要があると思います。

ハンターさんは大阪鉄工所の成功に満足せず、精米事業など新しいビジネスに挑戦し続けました。日立造船には変えていかないとダメなんだというDNAが創業者の時代からあったわけです。すごく刺激になる話ですね。

鼎談を終えて

山本

ある職員は、経営が厳しくなった時に原点に戻ろうとハンターさんの墓参に行きました。すると「ハンターさんは自分とは違って外国の人だったのに大きなことを成し遂げたのだ」と自身を奮い立たせてくれたそうです。そんな人が日立造船の創業者だというだけで確かに勇気をもらえますよね。造語ですが「温故創生※3 」という言葉が私は好きです。昔のことを知って、その上で新しいものを作っていくという意味です。今なぜハンターさんなのか谷所会長が話されましたが、ハンターさんや会社の歴史を知って、新しいものを生み出していくエネルギーの素(もと)になれば良いですね。

楠田

こんなエピソードがあります。別のある職員は「ハンターさんはとてもチャレンジングな人で、それに比べて自分は大したことがない。でもそれは彼が外国人で明治時代の人だったから」と思っていたそうです。けれども調べてみると当時は自由民権運動が盛んで、日本人はとてつもなく頑張っていたことが分かったと。すると外国人だから、あの時代の人だから今とは違うという思いがなくなったそうです。身近なところに、偉大な先輩がいたんですね。

谷所

当社は戦後、中国や旧ソ連などと国交がまだない頃、それらの国々に船を売りにいっていました。国交がないから問題が起きても政府を頼ることもできない、そんな中でも障害を乗り越えて仕事をしていた人たちがこの会社にはいたんです。すごいチャレンジ精神です。人を知る、歴史を知ると前に進む力をくれると思います。

  1. ※1エドワード・チャールズ・キルビーはスコットランド出身の実業家(1836~1883)。キルビー商会を設立し、ハンターも商会の中で活躍した。造船業に着目し、日本海軍より軍艦「大和」建造を受注したが、資金繰りに行き詰まり自殺したと言われている。
  2. ※2トーマス・ブレーク・グラバーはスコットランド出身の商人(1838~1911)。グラバー商会を設立。武器商人として幕末の日本で活躍したが、1870年に商会は破産した。
  3. ※3元熊本県議会議員の古閑(こが)三博(さんぱく)による造語

創業者ストーリー

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ハンターエッセー